$ convert -type GrayScale -level 10%,85% -page A4 -density 72 -resample 150 -quality 10 *.JPG pdf.pdf

ImageMagick - Convert, Edit, or Compose Bitmap Images
http://www.imagemagick.org/script/command-line-options.php #page,#density,#resample参照
http://www.imagemagick.org/script/command-line-processing.php#geometry
ImageMagickで、画像のピクセル数を変更せずに解像度を変更する場合は -density オプション。画像の大きさを変更せずに解像度を変更する場合は -resample 。
また、PDFに変換する場合には -page オプションで用紙サイズを指定できる。複数の画像をまとめて1つの複数ページPDFに変換することも可能。ただし、 -page オプションは、どうにも解像度等と用紙サイズの関係がうまくいかないと、画像が左下にちまっと入るだけで、変に余白ができてしまう。上の例は、 -density を72dpiに指定したらうまく行ったぞ、というメモ。
もっとも、上のconvert文で29枚ほどの画像をPDFにしようとしたら、5時間かかっても終わらなかった。mogrifyでJPG画像変換だけを試みたらそこまで時間がかからなかったので、おそらくPDFへの変換に難があるのだろう。JPEGから複数ページPDFへの
変換だけを試みても、やはり一向に完了しなかったし。


と、こうやって画像のPDF化を試みたのは、答案(手書き)をもりっとファイルにまとめたいと思ったため。
うちにはスキャナがあるもののパソコンから遠くネットワークにも繋がっていない。が、USBメモリに画像を読み込むことはできるので、ひとまずUSBメモリに取り込んで、それをMacからどうにかしようと思ったわけ。
別の手段として、最近日本で脚光が当たったAutomatorを使う手も考えた。それが右のワークフロー。
これを使えば確かにグレイスケールの画像を詰め込んだPDFが出来る。
なんだけど、いかんせん容量がバカでかい。29枚で30MB程度になる。
で、(結果的にはあまり意味がなかったが)PDFに取り込むJPEGが圧縮されていないのが原因かと思ってAutomatorでの圧縮を試みたのだけど、標準搭載の圧縮アクションはGraphickComverterのインストールが必要だし、米Appleのサイトにあった圧縮アクション(freeware)もなぜかうまく行かなかった。Automator内でシェルスクリプトからImageMagickを叩くことも試みたけど、なぜかエラー。
ガバイト単位の容量を気にする時代ではないと思いつつも、気持ち悪くて…。


それならばということで、ImageMagickで圧縮した画像集をプレビュー.appでまとめて開いてまとめて「印刷」すればPDFが作れるのでそれを試みる。JPEGのままだし解像度も気にしなくて良いので、変換は下記コマンド。

mogrify -type GrayScale -level 10%,85% -quality 10 *.JPG 

で、この処理後のファイルは全部で約3MB。ところがPDF化したらやっぱり15MBくらいにはなってしまった。
結局のところ、画像の入ったフォルダをそのままZIPアーカイブするのがベストだということだ。容量は2.6MB。下手にPDF化する場合の10分の1で済む。
違法にアップロードされる漫画等は連番ファイルのZIPになっているのが通常らしいけれど、電子書籍のフォーマットが使われないのは使いやすいフォーマットがないからなのかもしれない。などと関係ないことも思った。


新聞のインタビューとか読んでなんだかなぁって気がしてたところ、丁度良く日本語版第1章PDFが無料ダウンロードできたので、サンデルの『これからの「正義」の話しをしよう』の第1章読んだけど、なんかすごくデマゴギーっぽい印象。
どうやら理論と印象が衝突した場合には理論が修正されるべき場合があると考えていて、それを根拠づけるために、正義の基準として「幸福」「自由」に加えて「美徳」を持ち出す。しかもこの「美徳」は実際には、事実に直面した際の直感・印象をこう呼んでいるに過ぎない。それによって直感を理論の枠内だと言い立てる。
理論が現実に合わない場合には理論が修正されるべきだけど、内心の直感はここでいう現実ではない。弁証法がやりたきゃ混乱の分析は必要だけど、分析結果が「これは(幸福・自由には資するが)美徳には反する」などという内容だったら無内容に等しい。循環論法でないと言うには正義と美徳が別物でなければならないが、別物なのだろうか?
「美徳」が時として現在の理論を刺激しうることは認めるが、それは当該美徳に未知の合理性(幸福・自由)があるためであって、美徳そのものを正義の根拠とするのは反知主義だ。幸福・自由の価値を承認した上で美徳をそれに併置する手法は、「もちろん科学は素晴らしい。しかし現代の科学はすべてを解明出来ているわけではない。だから霊は存在するのです。」と言うスピリチュアリズムとどこか異なるだろうか?
結局のところ、これは排すべき古代の理論への回帰に過ぎないのではないか。排すべき自由放任主義に新しいラッピングを施した新自由主義と同じ轍を踏むのではないか。
とか思った。
あと本文中の例のうち、ヤギ飼いのエピソードは逆だと思った。民間人を殺すという判断を理論的な側に挙げているけど、これはアメリカ人兵士の命とアフガン民間人の命が同等だという直感に基づいている。兵士と民間人の命の重さは全く異なる。だから、本来ここでの葛藤は、兵士が死ぬべきだという理論とアメリカ人が死ぬのは嫌だという直感の対立に過ぎない。答えは自明。