見目よい女の子がちやほやされるのが人種に基づく差別であるとすれば、心のきれいな女の子がちやほやされるのは信条に基づく差別なんだな。
っていうか男が女の尻ばかり(そして女が男の棒*1ばかり)追いかけるのは性別に基づく差別なんだな。
要するにみんな合理的根拠に基づく差別だから公序良俗に違反しないってことさ。


今月(?)の日経サイエンス見たっけ、なんかラベンダー等のアロマエキスに囲まれて育った思春期前の少年に乳房の発達が見られ、調べてみるとどうやらアロマエキスが女性ホルモンのように作用し、ほんで男性ホルモンの作用を阻害したとか、そんな感じだったらしい。
わぁい
まぁアレだよね。アロマテラピーで胸の発育を促す、みたいな感じで売り込めるかもね。

問1 甲は自動車を運転中、人通りの無い道を一人で歩いている乙の姿を認め、強姦する目的で乙を車内へ引きずり込んだが、下半身を裸にしたところで乙が男性であることに気付き、甲は猥褻行為を中止して乙を車から降ろして逃走した。甲の罪責を論ぜよ。
問2 問1と同様のケースで、甲は乙が男性であることに気付いたが、「私達の業界ではむしろご褒美です」と考え乙への猥褻行為を継続しようとしたが、乙のおびえる子犬のような顔に憐憫の情をもよおし、行為を中止して乙を車から降ろして逃走した。甲の罪責を論ぜよ。


表現の自由が政治的表現の自由よりも尊重に値し、それゆえ後者には前者と比較してより厳格な基準が用いられるという考えに納得できないのは、例えば両者の区別が必ずしも明確であるとは言えないからかもしれない。
例えば「善良な性風俗の維持」を目的として同性愛表現を含む文章に対し何らかの規制を加える場合を想定してみたとして、なるほど確かに純然たるポルノと呼ぶべき同性愛表現物もあろうけれど、同性愛者が自分達の社会的地位の向上と同性愛への社会的認知を拡大する目的で発表された文章であれば、性風俗の問題にとどまるものではなく、政治的表現としての意味合いをも帯びる。
このように性表現と政治的表現とは常に明確な区別が可能であるとは言えず、また性表現と一口に言ってもその規制の必要性はやはり濃淡があると言わざるを得ない。
そしてそうした点を考慮をしたならば、表現の種類の判断は「基準の選択」の段階でしかなかったはずなのに、実質的な内容判断が行われることになる。
畢竟、入口時点で基準を振り分けることは非現実的で、それゆえ表現の自由はその内容によって基準を変えずに統一的な基準によって審査を行い、内容の違いはその共通の基準の適用に置いて考慮しなければならないんじゃないか、と、まぁそんな感じ。


Business Media 誠:+D Style News:数学者レオンハルト・オイラー生誕300周年記念――オリス、“数独”ウォッチを発表
12万8100円。数学者じゃない私がネタで買うのはちょっと恐れ多い感じ。
っていうかオイラー方陣って何だ?

*1:肉棒であれ年俸(←字ぃ違う)であれ